ビートルズ DVD ポール、ジョージ、リンゴが語るビートルズと貴重映像

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ビートルズ DVD ポール、ジョージ、リンゴが語る

ビートルズ DVD は、ビートルズの歴史をメンバー自身により生い立ちから結成〜解散について忠実に語られています。貴重な初期のライブ映像からは、最高にドライブする演奏も視聴でき、改めて演奏の上手いビートルズの実力を堪能できます。

ビートルズ DVD ポール、ジョージ、リンゴが語るビートルズと貴重映像

画角比:4:3

音声:ドルビーデジタル5.1chサラウンド、リニアPCM、dts5.1chサラウンド

収録時間:11時間14分

字幕言語:英語字幕/日本語字幕/ポルトガル語字幕/フランス語字幕/ドイツ語字幕/スペイン語字幕/イタリア語字幕

ザ・ビートルズ・アンソロジー DVD BOX 通常盤

ビートルズ DVD ポール、ジョージ、リンゴが語るビートルズと貴重映像

ビートルズ DVD 映像

ビートルズ DVD ポール、ジョージ、リンゴが語るビートルズと貴重映像

1940年7月~1964年2月

ビートルズ DVD ポール、ジョージ、リンゴが語るビートルズと貴重映像

エピソード1 ザ・ビートルズ誕生

メンバーの生い立ちからジョンを中心としたバンド結成〜ハンブルグやキャバーンクラブでの下積み時代、エプスタインがマネージャー、デッカオーディション、EMIオーディションでのジョージ・マーチンとの出会い、プリーズ・プリーズ・ミーがイギリスでNO.1になるまで

キャバーンでのモノクロのライブ演奏やその他のライブ音声を聴いてみると、ビートルズの演奏はノリが良くて、いかに演奏が上手いかを改めて感じることができます。

エピソード2 イギリスでの成功

プリーズ・プリーズ・ミーがイギリスでNO.1になりラジオ番組やTV出演、ヨーロッパツアー、イギリス王室開催のロイヤルバラエティーショウ出演などイギリスで成功をつかみアメリカ進出を目指す。

アメリカではキャピタルとの契約はできず「プリーズ・プリーズ・ミー」「フロム・ミー・ツー・ユー」「シー・ラブス・ユー」のシングルは、マイナーレーベルであるスワンやビー・ジェーからの発売ということもあり売れ行きが伸びなかった。しかしヨーロッパでの人気や、シングル「抱きしめたい」のヒットによりアメリカキャピタルとの契約を勝ち取りアメリカでもNO.1に輝き、遂にアメリカ上陸へ!

1964年2月~1965年8月

ビートルズ DVD ポール、ジョージ、リンゴが語るビートルズと貴重映像

エピソード3 アメリカ上陸

1964年アメリカでシングル「抱きしめたい」が1位になったこともありアメリカ初上陸を果たす。

TV番組のエドサリバンショー出演しアメリカ最高視聴率を獲得。(ビートルズが出演中はアメリカの犯罪は起きなかったとか)

初のコンサートはワシントンコロシアムで開催されました。

ステージが中央に設置され1曲ごとに回転しながら演奏するビートルズ4人の生き生きしたドライブ感あふれる演奏は素晴らしく、その中でも不安定な回転台に乗せられたリンゴ・スターの熱の入ったドラムが躍動しています。

イギリスに戻ると映画A HARD DAYS NIGHTの撮影を行いプレミアショーでは、エリザベス女王が出席されビートルズとの挨拶を交わすシーンも映像に収められています。また、映画A HARD DAYS NIGHTに出演したパティ・ボイドとジョージが後に結婚したことも有名です。

ツアーでは、リンゴが扁桃炎にかかりジミー・ニコルが一部のコンサートを代役でおこなうという事もありましたが、オーストラリア公演で復帰。

エピソード4 世界制覇へ

有名になった事でビートルズのアイドルだったミュージシャン、チャック・ベリー、ファッツ・ドミノ・・・等との出会い。

第2段映画となるヘルプでは、アメリカで出会ったマリファナを使用して撮影を行った逸話〜エリザベス女王からMBE勲章の授与〜そしてシェイスタジアムのコンサート。

アイ・フィール・ファインでは、ジョンがアンプに立てかけておいたギターが偶然ハウリングしたことがきっかけとなり初めてフィードバックをレコーディングに使用した曲です。ジミ・ヘンドリクスが行うより早くにビートルズがレコード化したことでも有名。

ブラックプールでのライブ演奏で、リンゴがヘルプ 収録曲「アクトナチュラリー」でドラムを叩きながらボーカルをとりますが、ビートが効いたタイトで締まったドラミングを見るとリンゴがただのドラマーでなことを感じられます。

1965年8月~1967年6月

ビートルズ DVD ポール、ジョージ、リンゴが語るビートルズと貴重映像

エピソード5 栄光と狂乱

アメリカでの人気を不動なものにしたビートルズは、シェイスタジアムでのコンサートを行う。当時としては初の野外スタジアムでのコンサートとなり観客動員数も5〜6万とも言われ当時としてはかなり大規模なコンサート。

1966年初来日して日本武道館でのコンサートは、「武道の精神を汚す」と言うことで一部からの反発があるが、ジョンがインタビューで「戦うより歌の方がいいでしょう」と語る場面も、コンサートは、マイクのセッティングが悪くゆらゆら揺れながら方向が定まらないシーンが気になります。

精力的にコンサート活動を行うも、移動先ではホテルに缶詰状態、ライブは観客の熱狂と絶叫で自分たちの音も聴こえず雑になっていく演奏とは反して、音楽的成長・レコーディングの成長により、ライブへの興味を失っていく4人。

エピソード6 レコーディング革命

「フィリピンには2度行きたくない」と言うほどの苦いコンサートツアー、ジョンのキリスト教発言がアメリアでは誤解されて認識された事による南部を中心としたボイコット運動、サンフランシスコキャンドルスティックパークを最後にコンサーツアーの中止。

ツアー中止後、ジョンは映画ハウ・アイ・ウォン・ザ・ウォーへの出演、ポールは映画音楽の作曲、ジョージはインドへ。

ビートルズとしての活動再開は、ジョンの作曲したストロベリーフィールズ・フォーエバーのレコーディングからスタートして、最高傑作アルバムと言われたポールの発案によるコンセプトアルバム SGT,ペッパーズのレコーディング。

1967年6月~解散

ビートルズ ・アンソロジー メンバー自身が語るビートルズをDVDで

エピソード7 愛こそはすべて

1967年アワ・ワールド(世界同時衛生放送)にイギリス代表として出演し、オール・ユー・ニード・イズ・ラブの演奏、当時の白黒映像がカラー映像にレストアされて派手な衣装でライブ中継が視聴できる〜フラワームーブメントの中心であるヘイトアシュベリーでのドラックカルチャーの実情〜インド(マハリシ・ヨギ)へ精神世界の追及の旅

ブライアン・エプスタインの死によりビートルズ4人の精神的、特にビジネス面での混迷

レコードレーベルだけでなく出版やアーチスト発掘など、多岐にわたる事業として『アップルの設立』

イエローサブマリンの制作(ブライアン・エプスタイン存命中に同意されていた企画により、製作されたアニメーション)内容的にも作品的にも好評を獲得。

ジョンとヨーコの出会いによりビートルズのバランスが変わっていく。

エピソード8 ザ・ビートルズ解散

4人の別行動が始まり単独のレコーディングも多くなったと言われるホワイトアルバム、アルバムレコーディング中にはリンゴがバンドから抜け出すも3人の説得によりバンドに戻る。

レボリューション、ヘイジュードスタジオライブ(ヘイジュードはジョンがシンシアと離婚することで息子のジュリアンをポールが励まそうとした事がきっかけ)

アップルブティックの閉店

映画「レット・イット・ビー」は、スタジオでのリハーサルやジャム・セッション〜フィナーレはライブで締めくくるというコンセプトであったが、初めて使用するトゥイッケンナムスタジオと、四六時中撮影されているプレッシャーの中、メンバー同志の仲違いからジョージがスタジオを飛び出す〜その後話し合いの結果アップルスタジオに場所を変えビリー・プレストンの参加等により継続撮影し最後のクリアマックス ルーフトップライブとなります。

マネージー アラン・クラインの出現により、アラン・クラインを推すジョン、リンゴ、ジョージ、義父リンダ・イーストマンを推すポールとの対立。

最後のアルバム『アビー・ロード』は、4人がエゴを捨て団結しジョージ・マーチンの元レコーディング

ビートルズのビデオクリップ

ザ・ビートルズ 1 デラックス・エディション 50曲の高画質映像

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